クリル湖—ヒグマの楽園—

クリル湖南岸のシユシュク岬にたつ星野道夫さんの記念碑。

カムチャツカ半島南部のクリル湖は,7600BPの完新世最大といわれる噴火によって形成された径約7kmのカルデラ湖である。北千島のアライド島はかつてクリル湖から飛んできたという,千島アイヌの説話でも有名である。この湖の一帯は,ヒグマの生息数が世界的にみても非常に高い地域として知られている。

1996年8 月8 日,私自身もファンの一人であった動物写真家・星野道夫さんは,このクリル湖でヒグマにおそわれ他界した。それだけに,2011年のクリル湖での調査は,複雑な思いでのぞんだことを覚えている。クリル湖の周囲には,夏期の漁業・観光シーズンで一時期最大数十人,冬は数人が滞在している。これに対してヒグマの個体数は,600頭とも800頭ともいわれる。どこでもヒグマがいるといっても過言ではなく,それだけの個体数をささえるだけの魚類資源の豊かさにも驚かされる。

現在,人間の居住区(湖からオホーツク海に注ぎ出るオゼルナヤ川の出発点とシユシュク岬の2箇所)にはすべて電気柵が巡らされており,ヒグマとの「住み分け」ができている。しかし,発掘の際には柵の外にでる必要があるし,たとえ向こう岸にヒグマが陣取っていても川を渡らないと仕事にならない。もちろん発掘中もわたしたちの横を何頭ものヒグマが往来していくことになる(クマ対策用の花火を携帯するくらいで,銃やクマスプレーはもたないほぼ丸腰の調査である)。

それでも,私はまだ危険な目に遭ったことはない。クリル湖にかぎらず,カムチャツカのヒグマはあきらかに人間をおそれており,つねに一定の距離を保とうとする。私たちの行く手にヒグマがいても,15〜20m以上離れた位置から大きな声を出したり,スコップを叩いて音を出すだけで走り去っていくのが通例である。クリル湖にかぎらず,カムチャツカの踏査においては,ヒグマがつくった「道」を使うのがもっとも歩きやすい。必然的にヒグマに出会うことになるが,早めに相手を発見し,一定の距離をたもったうえでこちらの存在を知らせれば必ず逃げてゆく。いきなりの近距離での鉢合わせだけは避けるよう気をつけているが,お互いがその存在をきちんと認識していれば,少なくともこれまでは問題はなかった。

しかし,カムチャツカであっても,人間が襲われる事例は毎年のように起きている。20世紀はじめにカムチャツカを探検したW・ヨヘルソンも,クリル湖で一度だけヒグマが自分たちに突進してきたので射殺したと記録している。これまでの私は単にラッキーだっただけなのかもしれない。ヒグマと人間がどのように共生できるのか,確固たる展望があるわけではない。面積も人口密度も,開発の程度も違うカムチャツカの事例をそのまま北海道に適用しても,うまくいかないのは目に見えている。ただ,自分がいつ襲われてもおかしくない「ヒグマの楽園」のなかにポツンと身をおくと,生態系の頂点にたつヒグマと人間は「恐れ」や「畏敬の念」を相互に抱いているのが本来の状態なのではないかということをいつも感じさせられる。そのバランスが崩れたとき,さまざまな問題が顕在化するのだろう。

クリル湖南岸のシユシュク岬にたつ星野道夫さんの記念碑。
クリル湖南岸のシユシュク岬にたつ星野道夫さんの記念碑。この岬全体が遺跡で,記念碑建立の際,基礎を作るための工事でも土器が出土したという。