内耳土器編年のブレークスルー

クリル湖採集(2006年)の内耳土器片

内耳土器は,紐で吊るための耳が内側に付いた土鍋。中世の東日本では鉄鍋を模倣してさかんにつくられ,北海道でも擦文文化末期からアイヌ文化期にかけて製作されていた。けれども,北海道よりもはるかに数が多いのがサハリンや北千島・カムチャツカ南部である。とくに北千島・カムチャツカ南部では,オホーツク文化の終焉のあと無人となっていたところに突如として内耳土器が多数出土しはじめ,鳥居龍蔵のインタビューから推察できるように,それは19世紀はじめくらいまで千島アイヌによって製作されていたらしい。なお,カムチャツカ南部の先住民であるイテリメンには土器を使う伝統自体がなく,実際,イテリメンの遺跡からは土器は一切出土しない。

したがって,内耳土器の出現は,千島アイヌ(厳密にはその祖先集団であるクリル)の出現と密接な関係があるはずである。

ところが,その年代決定は困難をきわめてきた。1930年代の馬場脩による北千島の発掘調査では竪穴住居から内耳土器が多量に出土したが,放射性炭素年代測定法の開発まえであったがゆえに遺構から採取した木炭が残されていない。ソヴィエト時代にも多数の内耳土器の発見例があるものの,明確に遺構にともなう事例は非常に少なく,信頼できる数値年代はほぼ皆無であった。私がカムチャツカ東南部のナルィチェヴォで調査した2棟の竪穴住居はあきらかに内耳土器と関連する時期のものであったが,残念ながら肝心の土器がまったく出土しなかった。

手詰まりに思えたが,カムチャツカ南部のクリル湖における調査(2011年)が突破口になった。ここは,W・ヨヘルソンが20世紀初めに内耳土器を多数発掘した場所で,ロパトカ岬とならんで遺構にともなう内耳土器にめぐり会うことができる可能性の高い場所である。幸運なことに,私たちの調査でも竪穴住居やそれに付随する土坑から顔つきのちがう複数の内耳土器片が出土し,遺構にともなう木炭も採取することができた。その木炭をもちいた最新の放射性炭素年代測定(AMS法)より,内耳土器は大きく新古ふたつの段階に区分できることが判明した。古い段階は15世紀後半〜17世紀前半,新しい段階は17世紀後半〜19世紀である。

千島アイヌは,15世紀後半〜17世紀前半にどこからか移住してきた集団にルーツがあるらしい。

Takase, K. 2013 Chronology and Age Determination of Pottery from the Southern Kamchatka and Northern Kuril Islands, Russia, Journal of the Graduate School of Letters, 8, pp.35-61, Graduate School of Letters, Hokkaido University.

http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52324/1/03_TAKASE.pdf

The article above is a result of study funded by JSPS KAKENHI Grant-in-Aid for Young Scientists (A) (Grant Number 22682008).

クリル湖採集(2006年)の内耳土器片
クリル湖採集(2006年)の内耳土器片